「ゲーム的リアリズムの誕生」を読む

ダンシング・ヴァニティーを紹介した際に、東浩紀の「ゲーム的リアリズム」を踏まえているというコトを書いたのだけど、肝心のゲーム的リアリズムとは何か今ひとつ理解できていなかったし、はてなのキーワードをみてもよくわからないので、改めて読み返してみたのでまとめておく。

ゲーム的リアリズム」とは

共通の価値観やイデオロギーが衰退したポストモダンにおいて、読み手を物語世界に引き込むための仕掛け。

例として「反復する物語世界」「重層する物語世界」の2つを挙げている。

これらの手法はキャラクター小説、データーベース消費型の小説、コミュニケーション指向型メディアの一般化を前提として成立している。

ゲーム的リアリズムの誕生

概念について上手く^^;まとまったところで、本書では、この概念でもって、ライトノベルやゲームを評論している。ライトノベルを評論したくて「ゲーム的リアリズム」という概念にたどり着いた、とったほうがより正確だろう。本書が成立した動機のもう一つとして、あとがきでは、以前「ポストモダンの文学」という課題について以前筒井康隆が編纂する論文集への寄稿ができなかったことに対して「ポストモダンの定義を拡張し、文学の範囲を拡張することで、まったく別の理論と事例のうえで答えようとした試みである」。期せずして本書は筒井康隆に捧げられている。

ゲーム的リアリズム」はいつ誕生したか?

いうまでもなく「反復する物語世界」「重層する物語世界」を舞台として、その物語世界に登場人物が自覚的な(メタ構造を持つ)文学作品は、モダンの時代から成立している。モダンでは「大きな物語」を異化する装置として消費され、ポストモダンではキャラクターデーターベース消費型「おたく」の成立により消費のされかたが変質した、ということだろうか? 群像2007年7月号の筒井康隆東浩紀の対談を読んでみたいと思う。

すべてのメディアは拡散を志向する

東は「コンテンツ指向型メディア」と「コミュニケーション指向型メディア」の概念を対比させているが、すべてのメディアはautocrineであるにせよ情報の伝達と拡散を志向する、その意味でコミュニケーション指向型と思うのだけど。
双方向コミュニケーションのシステムを内在化するかどうか、ということなのだろうか? それともあくまで消費する側の問題、なのだろうか?

選択するということは喪失することである

本書を読んで一つおもしろかったのは、データベースの海で漂っている我々にとって、「選択することは喪失を伴う」とは極めて今日的かつ重要なテーマである、ということだ。ディックの短編(電気蟻*1)にあるように、我々は横一列全部にパンチ穴を開けることは出来ない、からである。



*1:すっかり忘れていたんだけど図書館で見つけた。収録されている「ディック傑作集2 時間飛行士へのささやかな贈物」は品切中 2008/4/30追記